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地域とともに100年 これからも歩み続ける未来へ

済生会神奈川県病院・開院100年の歩みと今後の目指すべき道

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 大正2年(1913年)に全国済生会の第1号病院として開院した済生会神奈川県病院(以下、当院)は、本年の9月1日に開院100周年を迎えました。この100年間、幾多の困難を乗り越えながら、当院は地域に対する一定の使命・役割を果たしてきました。これは多くの勤勉なる先輩方を含む当院職員の「弛まぬ努力」の賜物であり、歴史的にみても、神奈川県と横浜市行政および慈善団体、多くの篤志家の「大きな温かい支援」、更には、地域住民の当院を必要とする「篤い想い」のお陰であると深く感謝いたしております。私自身も、30年余を職員として当院の使命の一端を担い、100周年を迎えることができたことを大変嬉しく、誇りに思っております。

 本稿では、当院にとって歴史的に重要な幾時かのエポックに沿い、この100年間の歩みを振り返り、加えて今後の目指すべき道について考察してみたいと思います。

 

 

 

 

済生会創立と当院開院(明治44年~大正2年)

 済生会は、明治天皇の「恵まれない人々に施薬救療し、済生の道を弘むべし」という済生勅語をうけて、明治44年(1911年)5月30日に恩賜財団として創立されました。未だ「福祉」という言葉も概念もない時代でした。あるのは明治7年に発令された「貧民救済」という概念に基づく「恤救規則」くらいでした。明治維新以来、日本は欧米近代国家を目指して所謂「文明開化」という経済発展期にありました。しかし、国内外における「西南戦争」や「日清・日露戦争」等による傷跡は大きく、救済されるべき社会的弱者は相当数いたと想定されます。加えて、この時代は結核を含む伝染病もしくは感染症の治療は必ずしも容易ではなく、衛生管理が行き届かない貧困層にその罹患率は高く、また、貧困ゆえに満足な治療が受けられないということが重大な社会問題でありました。それゆえ、「施薬救療」は、その理念は「救貧」の理念と殆ど同じであり、「救貧施策」の中では重要な位置を占めていました。そのような社会背景の時代に済生会は設立されました。そして、その約2年3カ月後の大正2年(1913年)9月1日、横浜・根岸村西竹ノ丸にて当院は開院しました。 

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関東大震災時と岡野町移転(大正12年~13年)

 当院が開院してから丁度10年後の大正12年9月1日に、関東大震災が起きました。当院が移転予定であった岡野町の病院建物も相当な被害状況であったにも拘わらず、早急な救護活動が必要であったため、取りあえずは岡野町に臨時横浜病院が開設されました。また、臨時横浜病院の院長の管理下に7臨時診療班が設置され、被災地の救護活動と傷病者の収容が活発に行われました。臨時横浜病院は大正13年6月末日にその任務を終了し、予定よりは遅れながらも当院が岡野町に移転しました。岡野町移転時の病床数は80床でした。大正13年以降、戦前、戦中の約20年余に及んで診療が行われた岡野町の病院も、昭和20年5月の横浜大空襲で全て焼失しました。昭和21年からは金沢区平潟町の仮病院(現若草病院所在地)で一旦は診療が開始されましたが、当院は昭和24年には現在地の神奈川区富家町に移転しました。

 

神奈川区移転と済生会の社会福祉法人への改組(昭和24年~昭和27年)

 敗戦(昭和20年)と日本国憲法制定(昭和21年)、社会福祉事業法制定(昭和26年)は、済生会にとっても大きな転機となりました。憲法第25条の翻訳に際し、「social welfare」「social security」の訳語として造語されたといわれる「社会福祉」や「社会保障」などの言葉も、概念として確立されていきました。昭和27年に「社会福祉法人」となった済生会は社会福祉事業にも力を注ぐことになりました。社会保障4事業の枠組みにおいて、「無料低額診療」は「社会福祉」の第2種事業に位置付けられるも、それ以外の「医療」は「公衆衛生」の中に位置づけられ、法律的には「医療」と「福祉」の間に乖離が生じてきました。しかし、敗戦後のこの時代、日本国民の多くは十分過ぎる貧困の状況にあり、生活保護対象者以外の国民層においても「無料低額診療」を享受する人々は少なくなく、疾病構造も依然として伝染病もしくは感染症が多かったため、「福祉」と「医療」の乖離が問題視されることは殆どありませんでした。

 昭和24年の神奈川区移転時の病床数は65床でした。その後は漸次増床され、機能的にも拡大されていくにつれ、当院の負う責務も大きなものとなっていきました。国民皆保険制度がスタートした昭和34年頃には当院のベッド数も170床になっていました。

 

本館竣工と神奈川県交通救急センターの併設(昭和40年)

 昭和40年頃には、モータリゼーションの発展に伴い、交通外傷が急速に増加し、その対策も早急に求められました。とくに当院は国道1号が2路に分かれる位置に所在したために交通外傷を中心とする救急医療が求められ、本館が竣工した昭和40年には、神奈川県交通救急センター(100床)が併設され、総病床数も350床となりました(昭和43年には400床)。日本救急医学会が設立されたのもこの頃であり、当院は本邦における交通外傷診療の向上に大きく貢献したのみでなく、救急一般においても大阪大学や日本医大とともに救急医学会のリーダー的役割を果たしてきました。

 

地域中核的病院としての病診連携と地域完結型医療の推進(平成6年頃)

 昭和60年には新館が竣工し(増床はなし)、さらに充実した医療機能が求められていきました。国民全体の生活水準の向上に伴い、また、結核等の感染症に対する著明な治療成績向上によって、疾病構造は大きく変化し、癌や生活習慣病への罹患が相対的に増加したため、その対策が重要となっていきました。神奈川区(人口約23万人)においては、平成の時代に入ってから、地域住民と診療所からの当院に対する信頼度もニーズも更に高まりました。当院としては、癌や生活習慣病の診療実績を向上させるとともに、平成6年頃から「病診連携Wの会」という研究会を立ち上げるなど地域中核的病院として病診連携と地域完結型医療の推進に力を注いでいきました。平成14年に日本医療機能の評価認定を受けたときには、救急医療を含む急性期医療の実績のみではなく、病診連携や診療録管理なども高く評価されました。

 

済生会横浜市東部病院の開院と当院の機能転換(平成19年)

 横浜市東部地域における中核病院の建設に際し、平成14年に済生会神奈川県支部が横浜市東部病院の設立主体として選定されました。当初は当院の移転計画でもあったため、当院職員がその準備に中心的に係わりました。しかし、神奈川区住民から病床を残してほしいという希望が多かったため、現在地にも150床規模で病床を残存させることになりました。東部病院落成時には300床の病床とともに、職員と診療機能の大部分は東部病院に移行し、当院は回復期リハビリテーションや維持透析などに機能転換を図ることになりました。

 

今後の目指すべき道

 当院の開院100周年を迎えるに際し、縮小に伴う経営危機も何とか乗り越え、東部病院との機能分担を踏まえた一体的運営も順調にその軌道に乗りつつあります。今後は更に東部病院との一体的運営を充実させることにより、当院における予防医療や外来診療、緩和ケアなどの機能拡大を図り、東部病院とともに横浜市東部地域における地域完結型医療システムの中核的役割を担っていきたいと考えています。また、無料低額診療は義務であるとしても、真の意味の病院の担うべき社会福祉事業はどうあるべきかを真剣に考えて、それにも取り組んでいきたいと思っています。

稿を終えるに際し、関係諸氏の今後の更なるご指導・ご鞭撻をお願いして、当院開院100周年のご挨拶とさせて頂きます。

 

病院長 吉井 宏

 

済生会神奈川県病院の歴史

◆明治25年(1892年) 横浜婦人慈善会病院 開院(中区西竹の丸)

◆明治44年2月(1911年)

済生勅語
◆同 5月 済生会 創立
◆大正2年(1913年) 済生会神奈川県病院 開院
◆大正12年(1923年) 岡野町診療所 建設
◆大正12年9月(1923年)

関東大震災

 震災前に新設されていた岡野町診療所の建物は大破するものの応急処置を施行し、

 さらに仮病棟を増築し臨時横浜病院を改称。

 横浜市内に同病院所属7診療班を設置し、被災者救護に当たる。 

◆平成11年3月(1999年) 臨床研修指定病院に指定 
◆平成19年3月(2007年)  済生会横浜市東部病院 開院 
◆平成23年3月(2011年)  東日本大震災においてDMATの一員として活動 
◆平成25年9月(2013年)  済生会神奈川県病院 開院100周年 

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